人間復興の先進地 きせき3・11⑪

【第2部 生きがい再び】

必ず意味が分かる


 本年3月11日、東日本大震災から10年になる。池田先生は、被災地の同志の歩みを「奇跡」のドラマとたたえた。「きせき3・11」では、人間復興の先進地と輝く東北の同志の「軌跡」をつづる。今回は、大病と闘う中、岩手県・大槌町で被災し、現在は遠野市で暮らす田中勝男さん。

たなか・かつお  岩手県遠野市在住 副支部長

 あれから10年。故郷である大槌町の町並みは随分と変わった。悔しかったのは、震災で思い出の風景が奪われたことよりも、町の再生に立ち会えなかったこと。遠野市に引っ越したのは、断腸の思いだった。

 

 余命1年――震災前年の夏、医師からの宣告にがくぜんとした。直腸がんだった。手術は成功したが、ストーマ(人工肛門)を着けた生活が始まった。抗がん剤治療にもリスクがあった。必死の闘病生活を送っていた時に、震災が起こった。


 津波は、あっという間に自宅をのみ込み、町を破壊した。


 避難所での生活は過酷だった。ストーマは排せつ物を収集する袋を定期的に交換する必要がある。だが、着の身着のまま逃げたため、交換する袋がない。妻は袋を求め、片道4時間かけてがれきの山を抜け、病院まで歩いてくれた。

震災直後の避難所で大槌の同志と(2011年3月22日)

 釜石市の仮設住宅に入ってからも、苦悩は増す一方だった。治療は順調に進んだものの、大槌町に戻りたいとの思いが募る。だが、自身の闘病と義父母の介護のため、いち早く生活を落ち着けたい。甚大な被害を受けた大槌町では、土地のかさ上げなどにまだまだ時間がかかる。


 「生きるために、行くしかない」


 2012年5月、遠野市に移り住んだ。

 

 新しい家が建っても、気持ちは晴れなかった。地元を離れた後ろめたさがあった。


 20歳で信心を始め、45年間、地域の繁栄を願い、地元の広布前進へとひた走ってきた。三交代勤務の合間を縫って友の激励に駆け、本紙の配達を35年間続けた。震災当時は地区部長。苦楽を共にした地区の同志は、家族も同然だった。

闘病中も支え続けてくれた妻・惠子さんと

 地区では9割以上の世帯が被災。肉親を亡くした同志もいた。そんな状況で、自分だけ内陸に移ることが、申し訳なかった。

 

 新天地での生活に戸惑いもあった。遠野の同志は温かく迎えてくれたが、〝被災者〟として見られていると思うと、勝手に気後れした。


 「大槌だったら、人付き合いも気楽だったのにね」――妻とそう話すほど、悔しさが込み上げた。義父母と4人で食卓を囲んでも、笑顔はなかった。

 

 〝病気になった私の使命は何ですか? 見知らぬ土地でも、広布の黄金柱として輝けますか?〟


 心の霧を晴らそうと、日に何時間も祈った。答えを求めて聖教新聞を熟読し、懸命に御書のページをめくった。決まって同じ一節が目に留まった。


 「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし」(御書234ページ)


 広布への一念を定めて戦い続ければ、必ず意味が分かるはず。この地で勝って師匠に応えたい。そう思えた。

 

 病を克服するため、1日に3万歩は歩いた。必死の闘病は功を奏し、15年夏、医師から寛解を告げられた。


 歩きながら、出会った友に自分から声を掛けた。近隣の雪かきを率先して行うなど、地域のために動いた。次第に友情が広がり、今では、散歩の帰りにたくさんの野菜をもらって帰るほどだ。学会に理解を寄せる友も増えてきた。

地域を歩き、友に声を掛けるのが日課

 3年前、生き生きと暮らす田中さん夫妻を慕って、長女夫妻と孫たちが一緒に暮らすことに。食卓は笑顔が絶えなくなった。


 地元の復興に貢献できなかったという思いは、今もある。だが、使命を模索し、見いだした確信がある。


 「この地で広布のお役に立ちたい。どこにいても、試練に負けず、人生を開く姿が復興の証しになると信じています」


 幾多の試練を越えて、〝黄金柱の誇り〟が輝きを増している。


(聖教新聞 2021年1月22日付)