人間復興の先進地 きせき3・11⑩

【第2部 生きがいを再び】

会津の冬も美しい


 本年、東日本大震災から10年になる。池田先生は、被災地の同志の歩みを「奇跡」のドラマとたたえた。「きせき3・11」では、人間復興の先進地と輝く東北の同志の「軌跡」をつづる。今回は、原発事故で福島県大熊町から喜多方市に移り、昨年9月から圏長として奮闘する阿部幸七さん。

あべ・こうしち  福島県喜多方市在住 圏長

 会津地方の冬は厳しい。住み慣れた浜通り(福島県太平洋側)にはなじみのない豪雪に、何度も心が折れそうになった。そんな会津の地で、阿部さんは「無冠の友」(本紙配達員)になった。間もなく6年がたつ。


 2011年3月12日の早朝、緊急で住民が集められた。行政の区長から「〝一時的に〟避難が必要だ」と言われた。阿部さん一家も最低限の荷物を持ち、急いで大熊町を出た。一番の懸念は義父母だった。


 義母は震災前に介護施設に入所していた。義父も体力的に、避難場所を転々とする生活は難しかった。幸いにも2人が入れる介護施設が喜多方市に見つかった。〝ひとまずは……〟。阿部さんも義父母の近くで暮らすことになった。


 喜多方市内で7カ所の避難先を転々とした。最初に言われた〝一時的〟という言葉が頭から離れなかった。朝、水面に太陽がきらめく、あの美しい海はない。冬は、どんより曇った空と降り積もる雪を憎んだ。寒さがしみた。施設の義父母は頻繁に「大熊に帰りたい」とこぼした。作り笑顔で「大丈夫、あと少しだ」となだめる阿部さんも人知れず、深いため息をついた。


 義父母の容体は次第に悪化。勝手に施設を抜け出し、探し歩いたこともあった。2人の面倒を見ていた妻も体調を崩した。発作を起こして2度、救急車で運ばれた。後に「冠れん縮性狭心症」と告げられた。避難と親の介護……心身はぼろぼろだった。


 よく夫婦で話した。「大熊にいたら、こんなことなかったのに……」。自分たちがどこに向かうべきか見えなくなった。無駄だと分かっていても、過去の〝たられば〟に期待し、感情が振り回された。


 真っ暗闇を這うように進む中、足元を照らす一条の光があった。うつくしまフェニックスグループ(原発事故等で避難した同志の集い)の友が次々と訪ねてくれた。語らうだけで安心できた。みんな、先の見えない将来を抱えながらも、誰かを励まそうとしている。同志の強さに触れ、自身の信心を見詰め直すように題目を唱えた。

こまめに同志の元へ足を運ぶ

 阿部さんは地元の友の中に飛び込んだ。王城会に加わり、時には「雪かきのやり方を教えてくれ」と、駐車場の除雪を買って出た。支部長になり、訪問・激励にも率先。当時の取り組み「壮年部ブロック5勇士」を達成し、皆と手を取り合って喜んだ。


 喜多方に来て2年後、聖教新聞の集金を頼まれた。大熊町でも、阿部さんは配達員だった。震災で途絶えた〝無冠の使命〟に携われる感謝が湧いた。購読者と顔を合わせると、短くても会話が生まれる。相手と心を通わせられる大切な時間になった。その後、配達も担うようになった。

待っていてくれる同志に新聞を手渡す

 未明の配達中、わざわざ顔を出し、声を掛けてくれる同志がいる。毎日、小窓を開けてあいさつする壮年は「いつも、あんたを待っているんだ」と。心が温かくなる。


 雪道は確かに怖い。歩幅を狭め、運転も無理をしない。だが〝池田先生の心を家々に届けるんだ〟との使命感がある。冬が厳しいほど、阿部さんの心は燃えた。


 「以前は〝苦〟だったものを、今は苦労と思わなくなった」。この10年を振り返り、阿部さんは語る。心が強くなれば全てが変わる。妻も健康を取り戻し、昨年9月には地区婦人部長に就いた。

配達を終え、妻・節子さんと朝のひととき

 6年前、喜多方の地に新居を構えた。今も浜通りの空気を懐かしく思い、建てた後でも〝この選択で良かったのか〟と、迷うことがあった。だが、その自宅が広布の会場となった時、確信した。


 〝これで、また一歩、広宣流布が進んだじゃないか。間違いはなかった〟


 先日、しだれ桜の並木道を目にした。雪で白く染まった木々が美しく映った。会津の冬ならではの光景だった。

雪かきのスコップ使いも板に付いてきた

(聖教新聞 2021年1月16日付)