人間復興の先進地 きせき3・11⑤

【第1部 命みつめて】

生きる心の財と共に


 明年3月11日、東日本大震災から10年になる。池田先生は、被災地の同志の歩みを「奇跡」のドラマとたたえた。「きせき3・11」では、人間復興の先進地と輝く東北の同志の「軌跡」をつづる。今回は、震災で亡くなった家族の命と向き合い続けてきた、福島県郡山市の平塚怜子さん。

ひらつか・れいこ  福島県郡山市在住 支部副婦人部長

 先日、郡山市内で開催された地区座談会。平塚さんは、代表で体験発表を行った。入会満60年。池田先生の第3代会長就任式にも参加した。「若輩ではございますが……」。あの凛とした声の響きは、今も耳朶から離れない。「先生と同志のおかげで、今の私がいます」。「3・11」を経て、その確信は強く深くなった。

体験発表を行った座談会で同志の拍手に包まれる平塚さん(右から4人目)

 原発事故のため、浪江町から夫と共に避難。気掛かりは、嫁ぎ先の南相馬市で津波にのまれた次女の安否だった。来る日も来る日も、無事の知らせを待ち続けた。その間も避難所を転々とし、故郷から遠くへと離れていく。娘を探しに行きたい。だが、原発避難がそれを許さなかった。感情にふたをして、目の前の生活に心を向けた。


 発災から3週間後、次女の遺体が発見されたことを、避難先の茨城県で聞いた。歯型と衣服が身元確認の決め手になったという。わが子の火葬にすら立ち会えなかった。2カ月後、通行止めとなった国道6号を迂回し、2日がかりで南相馬市に。白布に包まれ、小さくなった娘の遺骨を目にした。言葉にならない思いがぼうだの涙となってあふれた。震災後、初めて泣いた。


 癒えない悲しみが上書きされる。2年後の6月。夫が脳出血で緊急搬送された。5日後、帰らぬ人に。「福島に戻りたい」。最期までそうつぶやいていた。


 話し相手がいなくなった部屋にポツンといると、心の奥にしまったはずの、娘を失った寂しさまでが込み上げる。「体を大事にしてね」と、野菜や果物を抱えながらこまめに実家に顔を出してくれていた次女。あの優しさにもう一度触れたい……。


 胸が張り裂けそうになるたび、池田先生の言葉が心に響いた。「どんな境遇にあろうとも、広宣流布に進む私たちの心は、同じ仏の境涯にあります。生々世々、仏の常楽我浄の世界で、一緒であり、一体なのであります。仮に一時、離れ離れになろうとも、この生命の不可思議な絆だけは、決して切れることはありません」


 「生命の不可思議な絆」――それを身をもって教えてくれたのが学会の同志だった。全国へ散っても、うつくしまフェニックスグループの友からの励ましが途絶えることはなかった。茨城の同志も「何でも言ってくださいね」と、足繁く通い、会合に共に参加してくれた。「それはもう、落ち込む暇なんてないほどでした」。震災がなければ出会うはずもなかった同志の励ましの輪の中にいる自分を感じた。その時、〝私は独りじゃない!〟と、確信できた。

夫・茂さん(左端)、浪江の同志と一緒に参加した創価大学の夏季講座で

 感謝の題目を上げる中で、思い出す光景があった。「お父さん、お酒とタバコを辞めてね」――。生前そう諭していた次女の言葉に導かれるように、夫は震災後、それらをきっぱりと断った。さらに、消極的だった学会活動や、同志の勧めで創価大学の夏季講座にも一緒に足を運んだ。「難しかったけど、居眠りしなかったぞ」と夫は照れくさそうに話した。昔かたぎで贈り物などしなかった夫からもらった「人生最高の思い出」。〝この心の財と共に生きていこう〟。2015年、平塚さんは郡山市へ転居。そして浪江町の自宅を解体した。


 自宅から持ち出した数少ないものの一つに、一枚のエプロンがある。かつて次女からプレゼントされたもの。娘の真心が身も心も包んでくれる。もう一つは女子部時代から愛用し、びっしりとメモが書き込まれた御書。力強く赤線が引かれた一文がある。「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし」(御書1192ページ)

愛用の御書には、びっしりと書き込みが

 喪失の悲しみは、時間がたてば薄まるものでも、何かで埋め合わせができるものでもない。祈りを生活のど真ん中におき、広布に歩む限り、2人もまた、自身の胸の中で生き続ける――平塚さんはそう思っている。


(聖教新聞 2020年11月6日付)