人間復興の先進地 きせき3・11③

【第1部 命みつめて】

歩むほど、より鮮明に


 明年3月11日、東日本大震災から10年になる。池田先生は、被災地の同志の歩みを「奇跡」のドラマとたたえた。「きせき3・11」では、人間復興の先進地と輝く東北の同志の「軌跡」をつづる。今回は、津波で亡くなった父の命と向き合い続けてきた、福島県相馬市の松本美恵子さん。

まつもと・みえこ 福島県相馬市在住 地区婦人部長

 9月のある日、地区の婦人部員からの電話が鳴った。今年、病で夫が急逝し、テレビを見ながら笑い合った時間がどうにも寂しいという。「みーちゃん(美恵子さん)は、津波で亡くなったお父さんの悲しみにどうやって向き合ってきたの?」。その婦人に初めて、父の話をした――。


 相馬港のそばにあった実家は、津波で全壊。同居していた家族の中で、父とだけ連絡が取れなかった。次の日も、その次の日も行方が分からない。不安で胸が張り裂けそうになった。そんな自分を抱き締めてくれたのは母だった。「必ずパパを見つけよう」。一番悲しいはずの母の言葉が胸に響いた。


 毎朝、家族で題目を上げてから、父を探した。自宅のあった地域はもちろん、県内外の遺体安置所を巡った。安置所の前に立つたびに震えた。不安と緊張、そして父の死と向き合う恐怖……。


 発災から24日後の4月3日、自宅から約1キロ離れたがれきの中で、父が乗った車が発見された。家族を心配し、急いで職場から戻ろうとしたらしい。お帰りなさい……。涙があふれて言葉は続かなかった。


 父の訃報を知った同志や父の同僚から、「お父さんに本当にお世話になって……」と、声を掛けられた。その多さに、父の人柄を思った。


 優しい父だった。「みー(美恵子さん)ならできるよ」。そう口癖のように話した。高校卒業後、アメリカ留学を希望した時も信頼して送り出してくれた。誰よりも、成長を祈ってくれる父だった。


 題目を上げ続ける中で、脳裏から離れない光景があった。それは、遺体安置所で出会った、家族や大切な人を探す人々の姿。〝自分と同じように、つらい思いをしている人がこんなにもいる……〟


 「父はその現実を見せて、同苦の励ましを送れる私に成長してほしかったのではないか。だから父はそばで見守りつつも、あえて出てこなかったと思うんです」。最も苦しみ抜いた日々にさえ〝意味〟がある。そう確信できると、少しずつ強くなれた。


――「話してくれてありがとうね」と婦人は電話を切った。松本さんは、題目を上げながら、胸中の父に報告した。「今日、お父さんの話をしたよ」


同じ災害公営住宅団地に住む同志のもとへ

 松本さんは今、地区婦人部長として同志の激励に走る。その舞台はかつて父が広布に駆けた地域。地区の統監カードを整理していると、責任者の記入欄に父の名前を見つけた。「荒木毅」。力強い筆致で記されていた。津波で何もかも流されたが、広布の歴史に父の存在が確かに刻まれていた。


 今年から父母に続いて「無冠の友(本紙配達員)」にもなった。


 父が歩んだ広布の道を歩むほどに、父の人生の偉大さを知る。父への感謝と、誇りに思う気持ちが深くなっていった。

夫・輝明さん、すくすくと育つ2人の子どもたちと

 「3・11」から9年7カ月。新たに誕生した命もある。震災の翌年、結婚し、2人の男の子が生まれた。夫を導師に、松本さんが勤行をしていると、「僕もナンミョーさん、する」とちょこんと膝の上に乗る子どもたち。子守唄として歌っていたからか、学会歌が大好きな未来っ子に育った。


 昨年末の幼稚園のお遊戯会。扇子を片手に、舞台の中央に立った次男の演舞は、どこか学会歌の指揮を思わせた。

お遊戯会での次男の雄姿(松本さん提供)

 父はよく「学会歌の指揮を執らせていただきます!」と座談会を盛り上げていた。家族、同志を守り、地域に福運を付けようと懸命に〝指揮〟を執り続けてくれた。


 子どもたちは父と会ったことがない。だからこそ、父がいつ見ても、喜んでもらえる家族で、私でありたい。それが今の自分にできる何よりの〝親孝行〟――そう信じている。


(聖教新聞 2020年10月16日付)